市報わかやま 平成28年9月号
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3市報わかやま 平成28年9月号3市報わかやま 平成28年9月号したが、天てんえいいん英院(六代将軍・家いえのぶ宣の妻)や月げっこういん光院(七代将軍・家いえつぐ継の母)からの支持や、藩の財政を建て直した実績から、吉宗が後継者に選ばれました。 年齢などを理由に、いったんは将軍就任を断った吉宗でしたが、その後、天英院の命を受け、就任を承諾。中なかみかど御門天皇からの宣せんげ下により、1716年9月28日(旧暦の8月13日)、八代将軍に就任しました。特集/徳川吉宗公将軍就任300年「旧徳川八代将軍宣下之図」(市立博物館蔵)享保の改革 将軍に就任した吉宗は、幕政の改革に取り組みました。その内容は多岐にわたります。先例に捉われない吉宗の改革は「享保の改革」と呼ばれました。◆ 町まちびけし火消組合を結成 木造家屋が密集して建ち並び、「火事と喧けんか嘩は江戸の花」といわれるほど火事が多かった江戸。吉宗は消防制度を見直し、町家の火事を食い止めるために、町人による町火消組合「いろは四十七組」を結成しました。◆ 目めやすばこ安箱を設置 誰でも意見を投書できるよう、江戸評定所の外に目安箱を設置。箱は施錠されており、吉宗自ら鍵を開けて投書を読んだといいます。目安箱への意見がきっかけとなり、小石川養生所の設置などが決まりました。◆ 足たしだか高の制 当時は、有能であっても石こくだか高(収入)が少なければ要職に就くことは不可能でした。そこで在任期間中のみ不足分の石高を補う「足高の制」を制定。優秀な人材を要職に取り立てることが可能になり、大おおおかただすけ岡忠相などが登用されました。― おもな改革の内容 ―◆ 上あげまい米の制 諸大名に対し、1万石ごとに100石を上納させる制度。吉宗は、米を上納させる代わりに参勤交代の際の江戸在府期間を1年から半年に短縮することで、大名たちからの反発を和らげるように配慮しました。◆ 税制改革(検けみほう見法から定じょうめんほう免法へ) 年貢高の算出方法を、収穫量によって決定する検見法から、収穫状況に関係なく税率を一定にする定免法へ変更し、安定して税収を得られるようにしました。◆ 公くじかたおさだめがき事方御定書の制定 公正な裁判を行うため、判決の基準を定めた公事方御定書を作成。司法や刑法、訴訟法などを判例をもとに定めました。伝わり残る、改革の功績 吉宗は、62歳で長男・家重に譲るまで約30年にわたり将軍として幕政改革に従事し、将軍職を退いた後も大御所として政務に当たりました。 吉宗の行った享保の改革は、後の寛政の改革、天保の改革の理想とされ、各地で藩政改革を行った為政者へ与えた影響も大きいものでした。現在でも、日本の近代化の起点となったと高く評価されています。意外と知らない? 徳川吉宗の豆知識花見に花火江戸の娯楽は吉宗が起源? 隅すみだづつみ田堤や飛あすかやま鳥山などの整備にあわせ桜を植えたのがきっかけで江戸に花見文化が浸透したといわれています。また、毎年7月開催の隅田川花火大会は、吉宗が享保の大飢饉の犠牲者の慰霊のために花火を打ち上げたことが由来です。ベトナムから象を輸入 吉宗が貿易商を通じて輸入した象は、長崎の港に到着した後、歩いて江戸へ向かい、しばらく浜離宮で飼育されました。江戸では「象ブーム」が起こったそうです。武道以外に絵の心得があった吉宗 武芸に秀でたイメージがある吉宗ですが、狩かのう野常つねのぶ信に師事し、絵も得意でした。鷹狩りが趣味であったため、鷹を描く表現力は絵師をもしのぐほどであったといいます。

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